2013年
11月
24日
日
書の響き
私たちは、普段、活字の文字を読んだり、また携帯電話やパソコンで、活字の文字を打ちながら文章を書きます。
しかし、その文字は、誰が読んでも書いても同じ無機質なものです。
ところが、その文字を筆で書いてみると、たちまち、何か生命をもったもののように有機的な
ものとなります。
では、書の生命とは何でしょうか?
筆を持つと、その持った人の心の動きが、筆の毛に伝わります。それが、毛の弾力となります。その弾力から生まれる力と勢いをもって、筆を動かし始めます。
そうすると、筆を運ぶ時に、呼吸が生じ、その呼吸に従って、間(ま)の取り方にリズムが
発生します。そのリズムが、線に緩急と抑揚の変化を生み出します。
そこには、絶え間なく流れる線の自然な躍動が表現されます。
そういう意味において、書は、「音楽」のようなものです。つまり時間芸術ということになり
ます。
5年前の夏、私の家にあるアメリカ人の高校生が滞在しました。彼女は、熱心に書道を学びました。あるとき、私が書を書いていると、それをじっと見ていた彼女がこう言いました。
「Yokoの書から、チェロの音が聞こえる。」
私は、彼女の言葉に驚きました。そのとき私は、書は音楽のようなものだと考えてはいましたが、それについて彼女に話したことはなかったし、また、実際に、ある楽器の音がすると評されたのは、初めてだったからです。
彼女の言葉は、書が音楽であることを証明してくれることになりました。つまり、筆で書かれた線は、ある響きを発するのです。
一瞬一瞬に表れゆく線が織りなす世界は、交響曲のようにさまざまな響きが交差する場となり
ます。
書の生命とは、まさにこの「響き」なのです。
この響きは、時間軸に沿って、表れたり消えたり、変容したり、、、というのを繰り返すだけでなく、紙面とその周りの空間をも支配します。つまり、その書の響きによって、周りの空間が、
グッと締まったり、悠大に広がったり、深い奥行きをもったり、静謐なたたずまいをもったりするのです。
このように、時間と空間を支配する響きは、ではどこから来るのでしょうか?
それは、筆を持つ人の心からと言えましょう。ですから、書においては、「人間性の尊厳」と「高い精神性」をたいへん尊重します。それゆえ、禅僧らが書いた墨蹟は、敬意をもって鑑賞
されるのです。
しかし、心ばかりでは、書は書けません。もちろん、手(技術)の習得に努めなければなりま
せん。
心が充実し、手が、心の動きに自然に従えるほどに、技術を習得できたとき、初めて、「心手相応」の境地を表現できるようになるのです。
すばらしい書の作品とは、品格ある人間性と、高度な技術とのバランスがとれているということであり、そこから紡ぎ出される響きこそ、透き通った気高い余韻となって、見る者を包むでしょう。