私たちは、普段、活字の文字を読んだり、また携帯電話やパソコンで、活字の文字を打ちながら文章を書きます。
しかし、その文字は、誰が読んでも書いても同じ無機質なものです。
ところが、その文字を筆で書いてみると、たちまち、何か生命をもったもののように有機的な
ものとなります。
では、書の生命とは何でしょうか?
筆を持つと、その持った人の心の動きが、筆の毛に伝わります。それが、毛の弾力となります。その弾力から生まれる力と勢いをもって、筆を動かし始めます。
そうすると、筆を運ぶ時に、呼吸が生じ、その呼吸に従って、間(ま)の取り方にリズムが
発生します。そのリズムが、線に緩急と抑揚の変化を生み出します。
そこには、絶え間なく流れる線の自然な躍動が表現されます。
そういう意味において、書は、「音楽」のようなものです。つまり時間芸術ということになり
ます。
5年前の夏、私の家にあるアメリカ人の高校生が滞在しました。彼女は、熱心に書道を学びました。あるとき、私が書を書いていると、それをじっと見ていた彼女がこう言いました。
「Yokoの書から、チェロの音が聞こえる。」
私は、彼女の言葉に驚きました。そのとき私は、書は音楽のようなものだと考えてはいましたが、それについて彼女に話したことはなかったし、また、実際に、ある楽器の音がすると評されたのは、初めてだったからです。
彼女の言葉は、書が音楽であることを証明してくれることになりました。つまり、筆で書かれた線は、ある響きを発するのです。
一瞬一瞬に表れゆく線が織りなす世界は、交響曲のようにさまざまな響きが交差する場となり
ます。
書の生命とは、まさにこの「響き」なのです。
この響きは、時間軸に沿って、表れたり消えたり、変容したり、、、というのを繰り返すだけでなく、紙面とその周りの空間をも支配します。つまり、その書の響きによって、周りの空間が、
グッと締まったり、悠大に広がったり、深い奥行きをもったり、静謐なたたずまいをもったりするのです。
このように、時間と空間を支配する響きは、ではどこから来るのでしょうか?
それは、筆を持つ人の心からと言えましょう。ですから、書においては、「人間性の尊厳」と「高い精神性」をたいへん尊重します。それゆえ、禅僧らが書いた墨蹟は、敬意をもって鑑賞
されるのです。
しかし、心ばかりでは、書は書けません。もちろん、手(技術)の習得に努めなければなりま
せん。
心が充実し、手が、心の動きに自然に従えるほどに、技術を習得できたとき、初めて、「心手相応」の境地を表現できるようになるのです。
すばらしい書の作品とは、品格ある人間性と、高度な技術とのバランスがとれているということであり、そこから紡ぎ出される響きこそ、透き通った気高い余韻となって、見る者を包むでしょう。
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ミカ・ツキオ (木曜日, 21 7月 2016 00:10)
私が感じていたことが、ここに書いてありました。
旧友の藺牟田星鳳君のFacebookからたどり着きました。
私は中学卒業と同時に鹿児島市に出て下宿生になったので日本習字をやめ、今は電気電子工学を専攻し課外活動として音楽を楽しんでおりますが、書から音楽を感じる人が自分の他にもいてとても嬉しく思いました。
sextelefon (金曜日, 17 11月 2017 22:46)
Swinburne
wróżba z kart tarota (金曜日, 17 11月 2017 23:55)
podczaszyna